終りに見た街の考察:勝地涼が演じた寺本の正体と作品の深層

終りに見た街の考察:勝地涼が演じた寺本の正体と作品の深層

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2024年9月21日に放送されたテレビ朝日開局65周年記念ドラマ「終りに見た街」は、多くの視聴者に衝撃と困惑を与えました。特に注目を集めたのが、勝地涼さんが演じたプロデューサー寺本真臣というキャラクターの存在です。戦時中に何度も姿を現す謎の人物として描かれた寺本は、物語全体を通して視聴者に大きな疑問を投げかけました。

このドラマは山田太一氏の原作を宮藤官九郎氏が令和版として脚本化したものです。興味深いのは、寺本というキャラクターについて勝地涼さん本人がInstagramで「元々ある役ではないが、原作の一文から膨らませた役」と明言している点です。つまり、寺本は宮藤氏によるオリジナル要素として加えられた存在なのです。チャラいプロデューサーとして登場しながら、昭和19年の戦時中では憲兵として繰り返し現れ、最後は地下シェルターで配信を続けるという謎めいた描写は、多くの視聴者を混乱させることになりました。

ドラマ放送後、SNS上では「勝地涼の意味がわからない」「寺本は黒幕なのか」といった疑問の声が溢れかえりました。劇中で明確な答えは示されず、視聴者それぞれの解釈に委ねられる形となっています。しかし、様々な考察記事や視聴者の反応を分析すると、寺本というキャラクターには作品全体のテーマを象徴する重要な意味が込められている可能性が浮かび上がってきます。

  • 勝地涼演じる寺本が戦時中に繰り返し登場する演出の意図
  • タイムスリップを引き起こした黒幕説の検証と根拠
  • ラストシーンの配信が示す現代社会への警鐘
  • 宮藤官九郎が寺本というオリジナルキャラクターに託したメッセージ
目次

終りに見た街で勝地涼が演じた寺本の考察

終りに見た街で勝地涼が演じた寺本の考察

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  • 戦時中に繰り返し登場する謎の存在
  • 寺本Pは黒幕なのか?視聴者の疑問
  • タイムスリップの引き金となった人物?
  • ラストシーンのシェルターが示す意味
  • SNS配信に込められた現代への皮肉

戦時中に繰り返し登場する謎の存在

作中で描かれた事実

寺本真臣というキャラクターの最大の謎は、2024年の現代ではテレビ局のプロデューサーとして登場しながら、主人公・田宮太一がタイムスリップした昭和19年の世界でも何度も姿を現すという点にあります。公式サイトやレビュー記事によれば、劇中では警防団や憲兵といった立場の人物として登場し、いずれも勝地涼さんと同じ顔をしていたとされています。

田宮は物語の終盤、荻窪で想定外の空襲に遭遇した際、この「同じ顔の男たち」が全て寺本であることに気づきます。複数のレビューやWikipediaの要約によれば、田宮は寺本を追いかけ「自分や家族をこんな目に合わせた張本人」だと確信するのですが、実際に追いついた男性は全くの別人でした。この場面は作品を理解する上で重要な転換点となっています。

演出の意図についての考察

この演出には重要な意味があると考えられます。田宮が「歴史を知っている」という安心感を持っていた間は、戦時中の人々の顔は区別がつきませんでした。しかし、自分の知る史実とは異なる空襲が荻窪で起きたことで、田宮の価値観が揺らぎ始めます。その瞬間に初めて、繰り返し現れていた人物が全て同じ顔だったことに気づくという解釈が成り立ちます。

注目すべきは、田宮が寺本の顔を認識するタイミングです。最初の警防団として家を焼きに来た場面では気づかず、見逃してくれた場面でも確信を持てず、不審な目で睨んだ場面でようやく「どこかで会った気がする」と感じ始めます。そして最後の憲兵として現れた場面で、田宮はこれまで見てきた人物が同じ顔だったことに気づくのです。

ある考察記事では、寺本の存在が田宮の心理状態を反映したメタファーである可能性が示唆されています。これはあくまで視聴者による解釈の一つですが、作中で寺本の正体が明示されていないことを考えると、象徴的な役割を担っていると見る向きもあるのです。

寺本Pは黒幕なのか?視聴者の疑問

黒幕説の根拠となる描写

ドラマ放送後、視聴者の間で最も議論されたのが「寺本は一連のタイムスリップを引き起こした黒幕なのか」という疑問でした。劇中で田宮自身が「寺本こそが自分や家族、友人をタイムスリップさせた張本人だ」と語る場面があるため、多くの視聴者がこの解釈を支持しました。

黒幕説を支持する根拠として挙げられる要素を整理してみましょう。いくつかのレビュー記事では、寺本が田宮に脚本を依頼する際、データではなくわざわざ紙の資料をダンボールで送りつけた点が指摘されています。これが「昭和でも見られるように」という意図だったのではないかという推測が一部の視聴者から提示されています。ただし、これは作中で明言されていない点には注意が必要です。

さらに、寺本が戦争ドラマについて語る際の発言も議論を呼んでいます。まるで実際に戦時下を見てきたかのような言動をとることから、何らかの特殊な知識や能力を持っているのではないかという考察も存在します。

黒幕説への反証と別の解釈

ただし、黒幕説には反証となる要素も存在します。最も重要なのは、田宮が追いかけた憲兵が実際には寺本ではなく別人だったという事実です。また、寺本がどのような能力や技術でタイムスリップを引き起こせるのか、その具体的なメカニズムは一切説明されていません。劇中で明示的に「寺本が黒幕である」と示される場面はなく、あくまで視聴者による推測の域を出ないことに留意すべきでしょう。

一部の考察記事では「寺本は時間に関する能力保持者で、現代に存在する寺本の意識が戦時中の人物に入り込んでいる」という解釈も提示されています。意識だけが飛んでいるため、田宮には実体がつかめない。だからこそ田宮を見つけても見逃したり、庇ったりする行動をとったのではないかという仮説です。これも興味深い解釈の一つと言えますが、作中で裏付けられているわけではありません。

むしろ重要なのは「寺本が黒幕かどうか」という二元論的な問いそのものが、作品の本質を見誤らせる可能性があるということです。宮藤官九郎氏の脚本意図を考えると、寺本というキャラクターは単純な「犯人」として設定されたのではなく、もっと象徴的な役割を担っていると考えるのが妥当ではないでしょうか。

タイムスリップの引き金となった人物?

タイムスリップの引き金となった人物?

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SNS通知とタイムスリップのタイミング

タイムスリップの引き金という観点から寺本の役割を検証すると、いくつかの興味深い符合が見つかります。複数のレビューによれば、田宮一家がタイムスリップしたのは、寺本からSNSの通知が連続で届いた直後でした。午前5時44分に閃光と衝撃音が起こり、目覚めると昭和19年になっていたのです。

同様に、田宮が現代に戻る(正確には、破壊された現代の東京に戻る)きっかけも、寺本の配信通知だったとされています。瓦礫の中で目覚めた田宮のスマホから寺本の配信が流れ始めるのです。この2つのタイミングの一致は偶然なのか、それとも何らかの意味があるのか。劇中では明示されていないため、視聴者の解釈に委ねられています。

未来人説と夢落ち説の比較

ある考察では「寺本は2024年よりもっと未来からの使者」という仮説が提示されています。未来で起こる戦争を知っている寺本が、過去を変えることで歴史を変えようとしたのではないか。そのために脚本家たちを過去に送り込んでいるという解釈です。しかし、これは完全に視聴者による推測であり、作中で裏付けられる描写は見当たりません。あくまで可能性の一つとして提示されている仮説として理解すべきでしょう。

ここで注目したいのは、タイムスリップしたのが「田宮の周りの知人だけ」という都合の良さです。この点は複数の視聴者が指摘しており、「全てが田宮の夢だったのではないか」という夢落ち説の根拠となっています。もしこれが田宮の夢や幻覚であれば、寺本は田宮の無意識が生み出した象徴的な存在ということになります。

ただし、夢落ち説も作中で明確に示されているわけではありません。タイムスリップが現実だったのか、夢だったのか、それとも別の何かだったのか。作品はこの問いに対して明確な答えを提示せず、視聴者の解釈に開かれた構造になっていると言えるでしょう。

ラストシーンのシェルターが示す意味

対比される田宮と寺本

寺本というキャラクターを理解する上で最も重要なのが、ラストシーンの配信です。破壊された現代の東京で瀕死の田宮の傍らに落ちたスマホから、寺本の配信が流れ続けます。地下シェルターで快適に過ごしている様子が映し出されるのです。

このシーンは多くの視聴者に強烈な印象を与えました。外では人々が死に絶え、田宮も左腕を失って命を落とそうとしているのに、寺本だけは安全な地下シェルターで優雅に配信を続けている。この対比は何を意味しているのでしょうか。

重要なのは、寺本が「戦争の到来を予見していた」という可能性です。複数の考察記事で指摘されているように、寺本は常に戦争が過去のことではなく今も起こり得るものだと認識していた可能性があります。だからこそシェルターを準備し、実際に戦争が起きても快適に生き延びることができたという解釈です。ただし、これも作中で明言されているわけではなく、視聴者による推測の一つです。

対照的に、田宮は「戦争は過去のもの」「昭和20年8月まで生き延びれば終わる」という認識に縛られていました。現代に戻れば平和な日常があると信じていた田宮は、破壊された東京の姿を目にして初めて、自分の認識が間違っていたことを思い知らされます。

作品が伝えるメッセージの可能性

ある考察では、寺本と田宮の対比が作品の核心的なメッセージだと分析されています。戦争を現実の脅威として受け止めた寺本は生き残り、過去のものとして受け入れなかった田宮は痛い目に遭った。この対比を通して、作品は「戦争は決して昔話ではない」というメッセージを伝えているという解釈です。これは視聴者による読み解きの一例ですが、作品理解の一つの手がかりになるでしょう。

さらに深読みすれば、シェルターの寺本は「上流階級」や「戦争を指揮する側の人間」のメタファーとも解釈できます。実際の戦争でも、指令を出す上層部は安全な場所にいて、実際に死ぬのは常に市井の人々です。寺本が配信を続ける姿は、戦争を他人事として楽しむ権力者の姿を風刺しているという見方もできるかもしれません。

SNS配信に込められた現代への皮肉

SNS配信に込められた現代への皮肉

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寺本のキャラクター設定

寺本のキャラクター設定で特徴的なのが、SNSという現代的なツールを象徴的に使用している点です。軽薄な投稿を連続で行う寺本の姿は、現代社会への皮肉として機能していると見る視聴者も多いようです。

注目すべきは寺本の投稿スタイルです。個人的で表面的な話題を、大きな社会問題と並列に扱う姿勢が描かれています。この軽薄さは、SNS時代の「意識高い系」を揶揄していると同時に、重要な社会問題が個人の日常と同列に消費されていく現代の病理を表現しているという解釈が可能です。

勝地涼さんは自身のInstagramで、寺本というキャラクターが原作の一文から膨らませた役であることを明かしています。視聴者に親しみやすさを感じさせながら、実は作品全体の不気味さを演出する装置として機能させているのかもしれません。

スマホが踏みつぶされるシーンの意味

さらに象徴的なのが、最後にスマホが踏みつぶされるシーンです。幼い清子を背負った人物が、配信中のスマホを無言で踏み潰して去っていきます。ただし、この人物が誰なのかは作中で明示されていません。新也とする解釈もあれば、清子の初恋の人である敏彦とする解釈もあり、視聴者によって見解が分かれています。

複数の考察記事が指摘するように、スマホを踏み潰す行為は、SNSに代表される現代文明の価値観そのものを否定する象徴的な描写と解釈できます。現代的な価値観と戦時中の思想の衝突を視覚的に表現しているという見方です。

また、寺本の配信を見ている(聞いている)のが瀕死の田宮だけという状況も皮肉です。SNSは「誰かに見てもらう」「繋がる」ためのツールですが、寺本の配信は結局、命を落としていく田宮にしか届いていません。これは現代のSNSコミュニケーションの空虚さ、表面的な繋がりの虚しさを暗示しているという解釈もあります。

ある考察では、寺本の投稿が「現代人の無関心さ」を象徴していると分析されています。世界のどこかで戦争が起きていても、SNSでは日常的な投稿が続けられる。自分に直接関係がない限り、深刻な問題も他人事として消費される。寺本の能天気な配信は、まさにそうした現代人の姿を映し出す鏡なのではないかという指摘です。

勝地涼演じる寺本から読み解く作品考察

勝地涼演じる寺本から読み解く作品考察

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  • 同じ顔の憲兵・兵士として現れる演出意図
  • 戦争を予見していた可能性の検証
  • スマホを踏みつぶされるシーンの象徴性
  • 宮藤官九郎が描いた令和への警鐘
  • 山田太一原作との相違点から見る新解釈

同じ顔の憲兵・兵士として現れる演出意図

メタファーとしての寺本

寺本が戦時中に複数の役割で登場する演出について、さらに深く考察してみましょう。この演出は単なる「不思議な現象」として描かれているのではなく、作品全体のテーマと密接に関連していると考えられます。

まず事実として確認できるのは、寺本と同じ顔をした人物が複数の異なる場面で登場していることです。警防団として田宮の家を焼きに来た場面、憲兵として登場する場面など、いくつかの役割で寺本と同じ顔の人物が現れたとレビュー記事では報告されています。

興味深いのは、各場面での行動が一貫していない点です。家を焼く非情な役割を担うかと思えば、次は田宮を見逃して庇う。ある時は疑いの目を向け、ある時は無関心。この一貫性のなさこそが、寺本の存在の本質を示唆しているのかもしれません。

視聴者による解釈の多様性

ある考察では、「同じ顔の人物」という設定が「戦争を起こすのは同じような人間だ」という暗喩だと指摘されています。つまり、時代や場所が変わっても、戦争を推進する側の人間の本質は変わらない。寺本の顔が繰り返し現れることで、その普遍性を視覚的に表現しているという解釈です。ただし、これはあくまで視聴者による解釈の一つであり、作中で明示されているわけではありません。

また別の視点では、寺本は「歴史が変わらないことのメタファー」だという分析もあります。田宮が「日本は負ける」「歴史はこうなる」と信じていた安心感を揺らがせないために、寺本の顔は全て同じに見えていた。しかし、その確信が崩れた瞬間に、同一人物だったことに気づく。つまり、寺本の存在そのものが田宮の心理状態を反映しているという仮説です。

勝地涼さんのキャスティングについても注目すべき点があります。立ち姿や敬礼する手の美しさ、全身から立ち上る迫力と目力の強さが、寺本というキャラクターの不気味さと印象深さを倍増させているという評価が一部で見られます。この視覚的インパクトが、キャラクターの象徴性を強めているのかもしれません。

戦争を予見していた可能性の検証

シェルター保有という事実

寺本が未来の戦争を予見していた、あるいは知っていたという仮説について、劇中の描写から検証してみましょう。この仮説を支持する根拠と反証を整理することで、寺本というキャラクターの本質に迫ることができます。

まず支持材料として挙げられるのが、寺本のシェルター保有です。ラストシーンで明らかになるように、寺本は地下シェルターを事前に準備し、実際に戦争が起きた際に避難することができました。現代日本でシェルターを保有している人は極めて少数であり、これは寺本が何らかの危機を予期していた可能性を示唆するものと見ることもできます。ただし、これも推測の域を出ません。

一部の考察記事では、寺本が「日本の戦いは遠い過去に終わったと思っている人は多いが、実はそうとは限らない」という認識を持っていたと分析されています。寺本は過去が変わらなければ、そして今を慎重に進めなければ、戦いは簡単に勃発するかもしれないと考えていたという解釈です。これは視聴者による深読みの一例と言えるでしょう。

予見能力説への疑問点

ただし、この仮説には疑問点も存在します。もし寺本が本当に未来を知っていたなら、なぜもっと積極的に戦争を防ぐ行動をとらなかったのでしょうか。また、田宮たちをタイムスリップさせることが、どのように戦争回避に繋がるのかという論理的な説明も不足しています。これらは作中で一切説明されていないため、あくまで視聴者による想像の範囲にとどまります。

興味深い解釈として、「寺本は2024年よりもっと未来からの使者」という仮説があります。未来で起こった戦争の記録を知っている寺本が、歴史を変えるために脚本家たちを過去に送り込んでいる。しかし、いずれの脚本家も寺本の思惑通りには歴史を変えられなかった。だから寺本は現在の悲劇を察知し、シェルターに籠もるしかなかったという解釈です。これも視聴者による推測の一つとして提示されているものです。

別の角度から考えると、寺本の予見能力そのものが疑わしいという見方もできます。シェルターを持っていたのは単なる偶然か、あるいは金銭的余裕のある人間の趣味だったのかもしれません。戦争が起きたことも、寺本の予見ではなく偶然の一致である可能性は排除できません。作中で寺本の能力や知識について明確に語られていない以上、断定は避けるべきでしょう。

スマホを踏みつぶされるシーンの象徴性

スマホを踏みつぶされるシーンの象徴性

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踏みつぶす人物の特定をめぐる諸説

ラストシーンでスマホが踏みつぶされる描写は、作品全体のメッセージを凝縮した象徴的な場面として機能していると見る向きがあります。この短いカットには、世代間の価値観の対立、現代文明への批判、そして戦争の本質に関する深い洞察が込められている可能性があります。

まず事実として確認すべきは、スマホを踏み潰す人物の正体です。劇中では明確に特定されていません。多くの考察では新也である可能性が高いとされていますが、幼い清子をおぶっている姿から、清子の初恋の人である敏彦とする解釈もあります。作中で明示されていない以上、両説を並列で理解するのが適切でしょう。

現代文明への批判としての解釈

もし新也だとすれば、なぜ彼がスマホを踏み潰すのか。それは彼が完全に戦時中の価値観に染まり、現代の価値観を否定したからだという解釈があります。劇中で新也は「多様性なんてクソくらえ」と言い放ち、お国のために戦うことこそが正義だと主張しました。そんな新也にとって、能天気な投稿を続ける寺本のスマホは、否定すべき対象そのものだったという見方です。ただし、これも視聴者による推測の一つです。

複数の考察記事が指摘するように、このシーンは「令和の個人主義」の終焉を象徴しているという解釈があります。寺本の配信は、自分だけが安全な場所にいて他者の苦しみを他人事として消費する、現代人の姿の極致です。それが踏み潰されるということは、個人主義的な価値観が戦争という極限状況では通用しないことを示しているのかもしれません。

ただし、踏み潰す側の行動を単純に肯定することはできません。なぜならその人物も、軍国主義という別の形の極端な思想に取り込まれている可能性があるからです。一方の極端から別の極端へ。スマホを踏み潰す行為は、バランスの取れた思考の重要性を逆説的に訴えているとも解釈できるでしょう。

また、スマホという物理的な機器の破壊は、情報伝達手段の断絶も意味しています。寺本の配信はスマホが壊れた瞬間に途絶えます。これは、どんなに発達した通信技術も、物理的な暴力の前には無力であることを示唆しているという見方もあります。戦争という暴力が支配する世界では、SNSの繋がりなど簡単に断ち切られてしまうのです。

宮藤官九郎が描いた令和への警鐘

令和版の新たな要素

寺本というキャラクターを通して、宮藤官九郎氏が令和の時代に何を訴えようとしたのか。この問いに答えるためには、山田太一氏の原作脚本と宮藤版の違いを理解する必要があります。勝地涼さん本人が明言しているように、寺本というキャラクターは原作の一文から膨らませた役であり、宮藤氏が新たに加えたオリジナル要素なのです。

公式サイトの情報によれば、宮藤版では信子や新也、そしてミリタリー系YouTuberの瀬尾というキャラクターの存在を通して、令和の若者が驚くほど簡単に戦争を肯定してしまう様子が描かれています。特に瀬尾の発言は、戦争をリアリティのないゲーム感覚で捉える現代の危険性を端的に表現していると見ることもできるでしょう。

世代間の価値観の断絶

複数の考察記事が指摘するように、令和版の特徴の一つは「世代間の価値観の断絶」を描いた点にあると言われています。戦争を知らない親世代と、さらに歴史からも遠ざかった子供世代。信子や新也は「わたしたちは昔話の世界の住人ではない」と言い、今この瞬間を受け入れて生きることを選びます。過去の教訓を重視する親世代とは決定的に異なる思考回路が示されているという解釈です。

寺本はこの世代間断絶の象徴として機能していると考える視聴者もいます。チャラくて軽薄で、深く考えずに発信を続ける寺本の姿は、令和の若者文化の戯画化と見ることもできます。しかし同時に、寺本だけが戦争を予見してシェルターに逃げ込むという展開は、表面的に見える軽さの裏に、実は鋭い危機意識を持っている可能性を示唆しているのかもしれません。

宮藤氏がこのキャラクターを通して伝えたかったメッセージについては、作中で明示されていない以上、推測の域を出ません。ただし、寺本は批判の対象であると同時に、ある意味で「備えていた」人物でもあります。戦争は起こらないと楽観視していた人々が死に、戦争を現実の脅威として備えていた寺本が生き残る。この皮肉な結末が、視聴者に何かを問いかけているのは確かでしょう。

さらに深読みすれば、寺本の存在は「メディアの責任」という問題も提起しているのかもしれません。テレビ局のプロデューサーという設定は偶然ではない可能性があります。戦争を扱うドラマを作りながら、実際には戦争の本質を理解していない。エンタメとして消費するだけで、本当の危機感は持っていない。寺本はそうしたメディア業界の姿勢を体現しているという見方も、視聴者の解釈の一つとして存在します。

山田太一原作との相違点から見る新解釈

山田太一原作との相違点から見る新解釈

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令和版の設定変更

最後に、山田太一氏の原作脚本と宮藤官九郎氏の令和版の相違点を詳しく比較することで、寺本というキャラクターの意味をより深く理解してみましょう。この比較から、時代ごとに変化する「戦争観」と「平和への脅威」の本質が見えてくる可能性があります。

まず確認できる大きな違いは、登場人物の職業設定です。公式サイトの情報やWikipediaによれば、令和版では主人公は脚本家となっています。この変更により、「物語を書く人間が実際に戦争を体験する」というメタ的な構造が生まれているのです。

さらに重要なのが、認知症の母・清子の存在です。テレビ朝日の公式イントロダクションによれば、この人物は令和版のオリジナルキャラクターです。清子は劇中唯一の戦争体験者として、過去と現在を繋ぐ重要な役割を果たします。認知症という設定も象徴的で、「記憶が曖昧になる」ことは「歴史の忘却」のメタファーとして機能していると見る向きもあります。

ラストシーンの違いが示すもの

ラストシーンの違いも重要です。令和版では破壊された現代の東京が描かれ、幼い清子と新也(または敏彦)の謎めいた登場で幕を閉じます。この変更は、特定の脅威から、より普遍的で予測不可能な戦争の危機へと焦点が移っていることを示しているのかもしれません。ただし、演出意図については作中で明示されていないため、あくまで視聴者による解釈の一つです。

寺本の存在も、この文脈で理解すべきでしょう。勝地涼さん本人が明言しているように、寺本は原作の一文から膨らませた役です。「同じ顔の人物」という設定自体が宮藤氏のオリジナルアイデアと考えられます。なぜ宮藤氏は寺本という不可解なキャラクターを加えたのか。それは、SNS時代の情報環境、個人主義の極端化、そして戦争の記憶が完全に失われた令和という時代特有の危機を表現するためだったという解釈も可能です。

ある考察記事では、オンエアではカットされた場面が多く、特に信子や新也が戦時中の価値観に染まっていく過程が省略されたため、寺本の存在意義も分かりにくくなったと指摘されています。本来はより詳細な心理描写とセットで機能するように設計されていた可能性があるというのです。

編集によって削られた部分があったとしても、寺本というキャラクターは強烈な印象を残しました。完全に理解できないからこそ、視聴者は自分なりの解釈を探し、議論し、考え続けることになります。寺本の「不完全さ」「不可解さ」こそが、戦争という理不尽で不条理な現象そのものを体現しているのかもしれません。ただし、これもあくまで視聴者による解釈の一つとして理解すべきでしょう。

総括:終りに見た街の考察:勝地涼が演じた寺本の正体と作品の深層

  • 勝地涼演じる寺本は宮藤官九郎が原作の一文から膨らませたオリジナル要素
  • 戦時中に複数の役割で繰り返し現れる演出は作品の象徴的な表現として機能
  • タイムスリップの黒幕説は視聴者による推測であり作中で明示されていない
  • 寺本は時間を操る能力者または未来からの使者という仮説は視聴者の考察
  • ラストシーンの配信は戦争への備えの有無を対比的に描いている可能性
  • 田宮が戦争を過去のものと見なしたのに対し寺本は備えていたという対比
  • SNSの連続投稿は現代人の無関心さと個人主義を風刺していると見る向き
  • スマホを踏み潰されるシーンは現代文明の価値観の否定を象徴する可能性
  • 踏み潰す人物が誰かは作中で明示されず新也説と敏彦説が存在
  • 令和版は世代間の価値観断絶という令和特有のテーマを描いたと見られる
  • 若者が簡単に戦争を肯定してしまう危険性への警鐘が作品の核心の可能性
  • 寺本はメディアの責任とエンタメとしての戦争消費への批判を含む可能性
  • 認知症の母というオリジナルキャラクターが令和版の重要な要素
  • 編集でカットされた場面があり本来の脚本意図が十分に伝わらなかった可能性
  • 寺本の不可解さが戦争の理不尽さと不条理を体現しているという解釈も存在
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